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三行半研究余滴 21 三くだり半にみる「内縁」

高木 侃

今回は三くだり半本文にみられる用語としての「内縁」に着目してみた。
用例としてできるだけ初出を挙げるとされる『日本国語大辞典 第二版』によれば、内縁は①「内々の縁故。内々の関係。私的な縁故関係」②「内輪の者だけで縁組を取りきめておくこと。また、事実上は同居して婚姻関係にあり、夫婦としての生活をしているが、まだ婚姻届を出していないために法律上の夫婦とは認められない男女の関係」③「内側のへり。内側にそった部分」という。②の後半は、明治民法施行(明治31年)後のことで、今日法律上のみならず一般的にもそのように理解されているが、今回は徳川時代の三くだり半を対象とするので扱わず、③は物の形状に関することで、ここでは措いておく。
用語としての内縁は、①「内々の縁故。内々の関係。私的な縁故関係」もしくは②「内輪の者だけで縁組を取りきめておくこと」のいずれかということになる。
ところで、三くだり半にみる内縁の用語に最初に注目したのは高島幸次で、滋賀県草津市内で見出した午年の隙状に「結内縁」とあるのは、午年が特定できず、徳川時代の内縁は庶民では「妾」、戸籍法以降のそれは事実婚で、「愛人」であったかもしれないという。
その後、筆者は成瀬高明の膨大な旧京都帝国大学法学部日本法制史々料の翻刻に接し、そのなかの主に関西の離縁状等に用語としての内縁をかなり見出した。
さらに筆者が収集した離縁状を整理して追加し、徳川時代の「内縁」は縁組(婚姻)そのものの意味から、今日の内縁以前の婚姻を予定しない私通(情交)をともなう男女関係まで、その語義はきわめて多様に用いられたことに簡略ながら言及した(拙著『泣いて笑って三くだり半』教育出版、2001年4月)。
また岐阜県下の文書(離縁状ではない)のなかに、妻の姻戚を内縁と称したものもあった。筆者所蔵になる関西の隙状のなかには「内縁之取結候処実正也」とあり、別の離縁状には「内縁取結、是迄連添来候処」とあった。ここでの内縁はいずれも縁組(結婚)そのものを意味する。
一方、東日本から見出した内縁記載の唯一の離縁状は甲斐国都留郡与縄村(現山梨県都留市)のもので「元より内縁も有之、其元方へ一向御無心申入貰請」とあり、離縁状のなかにみられる内縁の用語としては唯一「内々の縁故」の意味である。
つぎに紹介するのは、東日本の二例目の内縁である。その写真と解読文を掲げる。用紙はタテ25・7センチ、ヨコ31・3センチメートルである。これまで紹介した離縁状と異なるのは上包「離縁一札之事」があることであり、離縁状に上包が残存するのは七パーセントほどである。諸般の事情で上包だけ散逸してしまうからである。
   離縁一札之事
一此度おなか儀、及離縁ニ
 候ニ付、暇遣し申候、外々より
 致内縁候とも聊申分無之候、
 為念仍て如件
  弘化二巳年十二月
         辰口村
           太右衛門
 伊勢山村
   源五郎殿
本文の読み下しは紙幅の関係で省略した。右両村はともに信濃国小県郡内の村(現長野県上田市)である。
夫が妻を離縁した上で外から内縁してもよいということは、ここでの内縁は再婚の意で、東日本でも内縁が縁組(結婚)を意味したことの証左である。また外々よりとあるのは、夫太右衛門が婿であったことをも意味している。
なお、出典等を詳しく知りたい方は、拙稿「『内縁』の語義について」(『専修法学論集』第126号、2016年3月)を参照されたい。
[たかぎ ただし/専修大学史編集主幹・太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]