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追悼 牧原憲夫さんとのぶつかりげいこ

大門 正克

2016年7月20日、牧原憲夫さんは72歳の生涯をとじた。持病の気管支拡張症が悪化するなかでクモ膜下出血を併発し、4か月を超える闘病生活後に亡くなられた。
牧原さんとは、いくつもの場面を思い出す。なかでも、2004年12月、東京の国分寺駅南口の喫茶店で会ったことは忘れがたい。
当時、私は、小学館でスタートする「全集日本の歴史」の近現代の編集委員を引き受けていた。一人一冊を書く全集の近現代は四巻。執筆者で真っ先に浮かんだのは牧原さんだった。明治前期を牧原さんに引き受けてもらわなければ、近現代の巻構成は成り立たない。大げさに聞こえるかもしれないが、私は並々ならぬ決意をもって国分寺の喫茶店に向かった。
そのころ、牧原さんはすでに、岩波新書の「シリーズ日本近現代史」の一冊を引き受けられており、それを理由に小学館の依頼は固辞された。だが私は引き下がらなかった。ビルの2階の喫茶店の窓側で長い時間がすぎた場面を、今でも鮮明に思い出す。牧原さんは結局根負けし、その結果、「全集日本の歴史」の第13巻として、牧原さんの『文明国をめざして』(2008年)が残された。根負けさせてしまい申し訳なかったが、今は、この本を書いてくれたことを心より感謝している。
1943年に東京都に生まれた牧原さんは、東京都立大学の大学院で日本近代史を研究した。私が牧原さんと親しく接したのは、東京の『田無市史』の編さんに参加してからである。1986年に始まった田無市史に私は最初から、牧原さんは途中から参加し、調査をともにするようになった。ほどなく私は、牧原さんの自宅で毎月開かれている勉強会に参加させてもらうようになった。勉強会には、落合延孝さんや鶴巻孝雄さん、杉山弘さん、阿部安成さんらがいた。
1990年代は、牧原さんともっとも親密な時間をもった時期だった。その90年代から2000年代にかけて、牧原さんの研究の軌跡は鮮やかに刻まれていった。『明治七年の大論争』(日本経済評論社、1990年)に続き、1994年には、「文明開化論」(『岩波講座日本通史』第16巻)と「万歳の誕生」(『思想』第845号)を発表、その後、『客分と国民のあいだ』(吉川弘文館、1998年)を刊行して、日本近代史研究における牧原さんの存在感は一挙に高まった。
これらの著作が出るたびに、牧原さんの自宅の勉強会で議論をした。私は、歴史と民衆に対する牧原さんの深い洞察に共感しつつも、「客分」としての民衆像に違和感が残り、毎回のように、「わかるのだが、しかし~」と意見を述べた。そのたびに、牧原さんからは厳しい反論をもらった。
牧原さんの自宅や小学館の編集会議などで、くりかえし議論をした。牧原さんを失って思うことは、牧原さんは、私のこれまでの人生で、唯一、ぶつかりげいこをしてもらった人だということである。考え方の違いにもかかわらず、私は牧原さんの歴史への向き合い方を根本的に信頼していた。
牧原さんは、自らの考え方に対して厳しい姿勢で臨み、たえず自覚的に検証しようとしていた。ぶつかりげいこをしてもらうように議論をしたのは、日本近代史の理解や民衆像、国民国家論などをめぐって、異なる意見を交わすことだけが目的ではなかった。牧原さんとの議論を通じて、私は何よりも私自身の議論の位置や意味を対象化し、自分の議論に対して自覚的であろうとしてきた。自分自身の議論の身のほどを自覚すること、これがぶつかりげいこを通じて牧原さんから学んだことであった。
たとえば、牧原さんは、国民国家を議論する際に、必ず「プロセス」を問題とし、そこにおける「せめぎあい」に焦点を定めていた(『客分と国民のあいだ』など)。民衆は、単に「される」存在ではなく、プロセスにおけるせめぎあいを通じて、「われわれ国民」という意識を「自発的」に獲得する。ここには、牧原さんの民衆に対する透徹した見方が示されているだけでなく、プロセスを生きる以外にない人びと/自分自身への厳しい自覚が反映しているように思えた。牧原さんの厳しい自己認識をどう受けとめ、歴史のプロセスを生きることを私なりにどう叙述するのか、私は常にこのことを考えていた。
2003年に、牧原さんの編で『〈私〉にとっての国民国家論』(日本経済評論社)が出版されている。八名の研究者による国民国家論の討論の記録であり、編者の牧原さんは、長時間におよんだこの討論を「歴史研究者の井戸端談義」(本の副題)と呼んだ。私も参加した井戸端談義を再読すると、牧原さんの肉声が聞こえてくるようだ。
この本の「はしがき」などで、牧原さんは、「とにかく妙におもしろく楽しかった」と述べ、この談義は、「基本的な意見の違いを超えて実りある討論をする」ものであり、「「立場の越え方」の実験」だったと振り返っている。
牧原さんの自宅の勉強会や、小学館での編集会議を思い起こせば、井戸端会議をめぐる牧原さんの感想は、そのまま牧原さんが日々実践していたことであり、立場を超えて実りある討論をするプロセスを生き続けること、これが牧原さんの生涯にほかならなかったように思う。プロセスを生きながら、私にはぶつかりげいこの相手をしてくださり、いくつものすぐれた著作を残してくれたことに対して、いまは感謝の言葉以外にない。
牧原さんに最後にいただいた葉書きの消印は、2012年7月10日。そこには次のようにある。
「たしかに、そういうところがあるかも知れませんが、私の方から言うと、大門さんの意見におおむね同感しつつ、目配りの周到さにチョッカイを出したくなる、ということかも知れません。『大震災後』の歴史学をどう切り拓いていかれるのか、見つめていたいと思います。お元気で!」
葉書きを読み返すたびに、いつもの牧原さんの笑顔が浮かび、私もニヤッと笑う。
[おおかど まさかつ/横浜国立大学大学院国際社会科学研究院教授]